みなさん、おはこんばんちは。
ここ半年で、格段に料理のウデが上がったと実感している(2021年02月19日の)さぶらでございます。
しっとりパラパラのチャーハンが作れるようになった!
さて、今回のテーマは「"頼る" と "依存する" の違い」でございます。
この2つの違いがわからずひとりで抱え込んでしまっている人、結構多いのではないでしょうか?
かくいうぼくも若い頃、このふたつにどんな違いがあるのかサッパリわかりませんでした。
そのため、何でもかんでも自分ひとりでやろうと問題や悩みを抱え込んだ挙げ句、処理しきれなくなって勝手に病んでいたものです。
ネットで愚痴やら文句やらを吐き出しまくったりしてな!
これが神代にて楽園より追放されし哀れなる者の行く末か…。
(若い頃、ネガすぎてミクシィからBANされていましたね)
その節は大変ご迷惑おかけしました。
とまあ、BANの話はさておき。
「頼る」と「依存する」には明確な違いがあります。
けれど、それを何となく感覚的には理解できていても、その違いを言葉にして説明できる人はそれほど多くないのかな?と感じております。
というわけで今回は、「頼る」と「依存する」の違いとは何なのかについて、詳しく解説していきたいと思います。
この記事を読めば、「この違い、わかる?」などとドヤ顔で自慢できる……かもしれませんね!
ジョークやで!
「頼る」と「依存する」、何がどう違う?
さて、いつものようにまずは肝心な部分からいきなりお伝えしてしまおうと思います。
「頼る」と「依存する」の違いは、ズバリ「主体性」にあります。
詳しく見てみましょう。
違いのポイントは「主体性」
そもそも、主体性とは何でしょう?
万が一ですが、ここを間違えてしまっていると理解が難しくなります。
念のため、チェックしておきましょう。
自分の意志・判断で行動しようとする態度。「主体性のない人」「主体性をもって仕事に取り組む」
goo国語辞書「主体性(しゅたいせい)の意味」(2021年02月16日参照)
やる気があるかどうか、やな。
なるほど、わかりやすい説明ですね!
ではこの意味を踏まえて、「頼る」と「依存」の意味を考えてみることにしましょう。
「頼る」の意味とは?
「頼る」についても、まずは言葉の意味から確認しておきましょうか。
[動ラ五(四)]《「手 (た) 寄る」の意》
1 たのみとする。つてを求めて近づく。「友人を―・って上京する」
2 助けとして用いる。依存する。「つえに―・って歩く」「自然の恵みに―・る」
goo国語辞書「頼る/便る(たよる)の意味」(2021年02月16日参照)
今回はちょっと難しげな説明ですね。
なんだか「依存」と同じだと言っているようにも見えます。
確かに否定的な文脈で「頼る」と言うと、「依存」と同様の意味合いに受け取れるかもしれません。
けれどここでは、肯定的な意味合いの「頼る」をメインに考えてみたいと思います。
その上で、依存との違いを見ていくで。
「頼る」の例
突然ですが、こんな⇩場面を想像してみてください。
もしあなたがおばあさんの立場だったら、どうでしょう?
多くの人は、青年の好意を嬉しく感じるのではないでしょうか。
そしてこの好意に甘えるのは、「頼る」にあたる行為だと考えられます。
たとえ自分が若者だったとしても、ひとりで運べないほどの重い荷物であれば、誰かの力を頼るのは自然なことではないでしょうか。
「依存する」の例
では次に、こんな場面を想像してみてください。
先程とは違い、このおばあさんは印象が良くないですよね。
階段の前でキョロキョロしていたのは、荷物を運ばせる相手を探していたからなのでしょう。
つまり、最初から自分で荷物を持って階段を上がる気など持ち合わせていなかった、ということです。
あくまで、例としての作り話やぞ。
ふたつの話の違いは主体性の有無にある
結論を見出しにしちゃいましたが。
このふたつの例の違いは、おばあさんの主体性にあります。
最初の例のおばあさんは、自分で荷物を運ぼうとしていました。
けれど次の例のおばあさんは、そもそも自分で荷物を運ぶつもりはなく、運ばせる相手を探していました。
もし青年が通りかからず、その後も誰も通りかからないとしたら、このおばあさんたちはそれぞれどうなるでしょう?
最初のおばあさんは時間こそかかるでしょうが、少しずつ階段を上がっていくでしょう。
すでに、荷物を持って5段目まで上がれたのですからね。
けれど2番目のおばあさんはどうでしょう?
いつまでも運ばせる相手が現れるのを待ち続け、結局1段も上がらないまま日が暮れてしまうかもしれません。
我が望みは、悠久たる無為徒食の果てに訪れる酔生夢死!!
(絶対に働きたくないでござる!!)
この例から考えると、「頼る」と「依存する」の違いは本人の気持ち(姿勢)にある、と見てよさそうです。
これこそ、「頼る」と「依存する」における主体性の違いではないでしょうか?
杖を使って歩くのは「杖への依存」ではないのか?
先程の辞書で調べた「頼る」の意味の中に、「つえに―・って歩く」という例文がありました。
おぼえてますか?
唐突ですが、ここで問題です。
杖がないと歩けない人は、「杖を頼っている」と言えるのでしょうか?
それとも「杖に依存している」のでしょうか?
依存とは違う気がするよな?
そうですね。
けれど、人によっては依存してしまっているかもしれません。
ポイントは、「責任」です。
例:徒歩で帰宅中に杖が折れてしまった場合
たとえば、杖がないと歩けないAさんとBさんが、帰宅中に杖を壊してしまった(不意に折れてしまった)場合を考えてみてください。
Aさんは、杖が折れたことに憤慨し、
「この程度で折れるとはけしからん!おかげでもう歩けん!」
と、ひたすら(杖が折れたことに対して)キレ散らかしています。
不座権名!!
(ふざけんな!!)
一方のBさんは、杖が折れてしまったことを受け止めた上で、周囲の通行人にタクシー代を貸してもらえないか、お願いをしています。
起きてしまったことは仕方がない。
今の自分にできることをしよう。
あなたには、どちらが「杖に依存している」ように見えますか?
主体性=責任感
すでに確認した通り、主体性とは「自分の意思で行動すること」を指します。
それは言い換えると、「自分の行動に責任を持つ」ということでもあります。
Aさんは杖が折れたことに憤慨するだけで、主体的に行動しようとしていません。
同情はするけど、ぶっちゃけ迷惑。
一方のBさんは、杖がなくても帰宅可能なタクシーを利用しようと、周囲の通行人に協力を求めています。
パッと思いついた例だから!
方法の良し悪しは気にせんといて!
「杖を使用して歩く」という自分の行動とリスクに責任を持てるかどうか。
その意識の違いが、「杖が壊れた」というアクシデントに対する対応の違いに表れている、と考えられないでしょうか?
「杖がないから歩けない」というのは事実だったとしても、壊れた後の行動を放棄してまで、杖に対してキレまくるというのはおかしな話です。
なぜならそれは「自分が歩く」ことに対する責任を、杖に対して求めていることの表れに他ならないからです。
つまり、依存しているかどうかを判断する際には、責任感の有無も重要なポイントになるわけです。
主体的=責任を持つ、ということ。
頼りすぎると依存しやすくなる?
ときどき、
「頼りすぎると依存しやすくなってしまうので、頼るのは良くないのでは?」
なんて意見を見かけます。
見かけるよね?
これについて、あなたはどう思いますか?
参考までにぼくの意見を述べると、「そうとは限らない」になります。
確かに、考えなしに人を頼り続けていれば、いつしか依存に変化してしまうことは十分に考えられるでしょう。
しかしそれは、頼ることと依存することの違いが曖昧だから、だと僕は考えています。
両者の決定的な違いをしっかり意識して、主体性を失わずにいられるのであれば、依存への変化を防ぐことができるでしょう。
主体性が消えてないか、ときどき確認すべし!
おまけ:「頼る」と「甘える」は何が違う?
ここからは、ちょっと長めのおまけコーナーです。
「頼る」や「依存」に似た言葉に、「甘える」というのがあります。
「甘える」には、肯定的な意味と否定的な意味があると思いますが、まずは辞書で意味をチェックしてみましょう。
[動ア下一][文]あま・ゆ[ヤ下二]
1 かわいがってもらおうとして、まとわりついたり物をねだったりする。甘ったれる。「子供が親に―・える」
2 相手の好意に遠慮なくよりかかる。また、なれ親しんでわがままに振る舞う。甘ったれる。「お言葉に―・えてお借りします」
3 甘ったるい感じや香りがする。
「いと―・えたる薫物 (たきもの) の香を」〈源・常夏〉4 恥ずかしがる。はにかむ。
goo国語辞書「甘える(あまえる)の意味」(2021年02月16日参照)
「―・えて爪食ふべき事にもあらぬを」〈源・竹河〉
やはり、可愛らしい意味とウザい意味が混在しています。
甘え上手とワガママは紙一重。
結論:「甘え」かどうかは他人が決める
実際「甘え」といっても、甘えている人の人柄や、甘えている人との関係性、甘えの程度などによって可愛く感じたり、ウザく感じたりしませんか?
甘えている本人の考えや思惑を確かめないまま、そのように判断するのはごく自然なことです。
ワイもそうだし。
それはつまり、可愛らしいかウザいかを決めるのは甘える本人ではない、ということに他なりません。
いつだってそれを決めるのは、甘えられる側の人や、それを見ている周りの人たち(第三者)なのです。
それぞれが勝手に判断してるだけなんやで。
気分で基準が変わる人もいる
ここでちょっと、昔のぼくの話をしてみようと思います。
ぼくがまだ20代半ばで、サラリーマンだったときの話です。
ある時、当時の上司であるUさんは言いました。
「わかんないことがあったら、何でも聞いて!」
実際に質問をしてみると、その人なりに丁寧に教えてくれました。
分かりやすかったとは言っていない。
しかし別の時に質問をしてみたところ、今度は打って変わって不愉快そうに、指で机を叩きながらこう言いました。
「少しは自分で考えてみろよ!」
コイツにしかわからないことを聞いたんだがな。
実はこのUさん、裏表のある気分屋として有名な人でした。
人当たりがよく、気前がいいのは機嫌が良いときや、気に入っている人の前だけ。
そうでなければ雰囲気が悪く、言葉もキツめの、(ぼくとしては)イヤな上司だったのです。
このようなタイプの人は、自分の気分や相手が誰であるかによって、「甘え」と「ワガママ」の境界線を、リアルタイムで自由自在に変化させてしまいがちです。
(もしかしたら、元々明確な基準を持っていないだけかもしれませんが)
「ゴールポストを動かす」のに似てる。
気にしすぎないで大丈夫!
このようなケースもあるので、基本的に他人の判断基準を正確に読み取ることは大変困難です。
相手がひとりしかいないなら、頑張れば対応できるかもしれません。
けれど相手が複数人になってしまったら、もうお手上げです。
めんどくさくて気にしてらんない。
世の中には、何をしても「甘え」「ワガママ」と捉える人が存在しますし、その逆の人もいます。
いずれにせよ、こちらの意思で相手の判断基準を変えることはできません。
なので、私達にできることは非常にシンプルです。
「甘え」と捉えられそうな言動をしないか、あるいは最低限の配慮だけをする(自分なりの判断で決める)か。
ただし、自分と相手の「甘え」に対する認識や基準が食い違ってた場合、どっちの対策も役に立たない可能性がある。
究極的には相性の問題なので、必要以上に気にする必要はないかと思われます。
自分の人生は自分が決めるもの
長くなりましたが、これにて「"頼る" と "依存する" の違い」、終了でございます。
お付き合いくださり、ありがとうございました。
最後にもう1度、ポイントをおさらいしてお終いにしましょう。
他人に協力を求めることは、決して悪いことではありません。
個人にできることが限られているからこそ、人は力を合わせる必要があるのです。
必要な協力を求めずにいることは、百害あって一利なしです。
一方で、自覚なき依存は大変危険なものです。
あなたの人生は、他の誰でもないあなた自身のもの。
そしてあなたの選択や決定は、あなたの人生を構成する要素です。
その大切な選択や決定を他人に依存してしまうことは、一時的であれ、人生そのものを他人に丸投げするのと同じこと。
あなたの人生を決めるのは、あなた自身であるべきです。
他の誰かに人生を決めてもらって悪いことが起きたとしても、その人が責任を取ってくれるわけではありません。
だから怒っても意味ないよ。
「頼る」は助け合い。
「依存」は責任の転嫁。
「頼る」と「依存」の違いを理解して、カッコイイ大人を目指しましょう!
ワイも目指すで!
ーおしまいー